2015年03月30日

「ふたりはふたご」Two of a Kind

かなり昔に楽しみました。

ちよっとご紹介です。

「ふたりはふたご」Two of a Kind


如何ですか?

コメントを外してお楽しみ下さい。
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2015年03月29日

tara long-How Powerful Is Japan?

TestTube-tara long
How Powerful Is Japan?

in 2012. japan laid claim to a string of eight tiny. uninhabited by buying them from private owner.
the problem is. china and taiwan also lay claim those islands.recently.
private owner.
the problem is. china and twiwan slso lay those same islands. recently.

こんにちは。
今日は、日本の国力について簡単に調べてみたいと思います。
2012年、日本は尖閣諸島を所有者から購入しました。
尖閣諸島は、8つの小さな島々で構成されています。

尖閣諸島の紛争が激しくなり、一部の記者の中には、ここが第三次世界戦争の導火線になるだろうと指摘する人もいます。もちろん、戦争とはそう簡単に起きるものではありません。

ところで、そんな日本の国力はどの程度なのでしょうか?」
皆さんもご存知の通り、日本の経済的規模が、驚異的な巨人であることは間違いないでしょう。

しかし、軍隊は、現在のところ、非常に弱い状態であると見ることができます。

CIAのレポートによると、日本はGDP全体の1%程度を国防費として支出しているだけです。

1947年、米国と連合国は、敗戦した日本に、旧日本国憲法から全面的に改正された新憲法にサインするよう命じました

刷新された憲法の中で最も重要な内容が、まさに憲法第9条でした。
日本国は、今後、いかなる国際紛争も、武力や威嚇を行使した解決法を永久に放棄するという内容です。

そして、1960年に日米安全保障条約が締結されました。

この条約により、米国は日本が危険にさらされた時、軍事的に自動介入するようになっています。

また、この条約には、米国が日本の領土のいくつかの場所に米軍部隊を設置し、運営できるようになっています。

こういったことで、今の日本の軍隊は小さくなっているのです。
募兵制軍隊である日本は、全体で約25万人の現役軍人が服務しています。

これは、世界順位で見れば、22位に相当する規模です。
つまり、日本は国力が弱いということでしょうか?

そうではありません。日本は経済的にも政治的にも、世界のリーダー国です。

日本のGDPは約6兆ドルにもなります。

これは、世界3位に該当する巨大な数値です。
そして日本には、優れた先端技術産業を担う、三菱や東芝などの企業もあり、これら最先端企業は、世界最高品質の電子製品や自動車、軍事製品を生産しています。

そして日本は、政治面でも大きな力を持っています。
国連全体予算の11%を日本が支出しています。これは米国に次いで2位の額です。

そして、米国と常に緊密な協力関係を維持していることは、ここで改めて述べる必要はないでしょう。
さらに、日本経済は不況にも関わらず堅調に推移しています。

これは、福島放射能事故など、数多くの災害を経験しても変わりませんでした。

もし、日本が軍事拡張を本格化させれば、世界的に見ても、有数の列強国になることは疑う余地はありません。

しかし、
日本国内の世論調査では、日本国民は既存の軍事的安定措置を好む傾向にあるため、そのような転換は容易に発生しないと思われます。

TestTube-tara long
How Powerful Is Japan?



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「珈琲時間」

「珈琲時間」
・「コーヒーベルト」
赤道をはさみ北回帰線と南回帰線の間の北緯25度・南緯25度の間 「コーヒーゾーン」とも言われる。

・品種
アラビカ種   原産地はエチオピア
ロブスタ種   カネフォラ種ロブスタ ビクトリア湖周辺から西アフリカを原産地とする
リベリカ種   アフリカのリベリアを原産地とするコーヒーの品種

コーヒー豆の種類は、主に生産地で分けられている。
名前の付け方は、国名(コロンビア、ケニア、コスタリカ等)、山域(キリマンジャロ、ブルーマウンテン、エメラルドマウンテン等)、
積出港(モカ、サントス等)、栽培地名(コナ、マンデリン、ジャワ等)などが多い。
この他、種名や栽培品種の名を付加した名称(ジャワ・ロブスタ、ブルボン・サントス)や、
選別時の等級を付加した名称(ブラジル No. 2、タンザニアAA)なども用いられている。

・代表的なコーヒー豆
ブルーマウンテン(ジャマイカ)
コナ(ハワイ島)
キリマンジャロ(タンザニア)
モカ(イエメン、エチオピア)

グアテマラ
ブラジル
コロンビア

マンデリン(インドネシア)スマトラ島産
トラジャ(インドネシア) スラウェシ島産。
ジャワコーヒー(インドネシア)ジャワ島産の主にアラビカ種コーヒーを指す
コスタリカ
サルバドル(エルサルバドル)
ケニア
ベトナム

・生豆 生豆の収穫年度は毎年10月1日を初日
ニュークロップ その年度に収穫され出荷された新しいコーヒー豆。特に10月に新しい収穫年度になってから呼ばれることが多い。
パーストクロップ 前年度に収穫されたコーヒー豆。
オールドクロップ 前年度以前に収穫されたコーヒー豆

・精製
乾式(乾燥式・非水洗式)
湿式(水洗式)

・焙煎
ライト   (light)
シナモン  (cinnamon)
ミディアム (medium)
ハイ    (high)
シティ   (city)
フルシティ (Full city)
フレンチ  (French)
イタリアン (Italian)

・粉砕(グラインド)
細挽き  ファイングラインド      エスプレッソマシン用
中細挽き ファインミディアムグラインド ペパードリップ用
中挽き  ミディアムグラインド     サイフォン用
粗挽き  コースグラインド       フレンチプレス用

・コーヒー豆を構成する成分
脂肪、蛋白質、コーヒーエキス、カフェイン、クロロゲン酸、粗繊維

・インスタントコーヒー
コーヒー豆の抽出液を乾燥させて粉末状に加工したインスタント食品である
スプレードライ法、フリーズドライ法などがある


ラベル:「珈琲時間」
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紅茶の時間です。

紅茶の時間です。

「紅茶」
「ティーベルト」 産地 北緯45度から南緯35度までの部分

代表的な産地 エリアティー

インド
  アッサム (Assam) インド北部産
  ダージリン (Darjeeling) インド北部産
  ニルギリ (Nilgiri) インド南部産


インドネシア/スマトラ
  ジャワ (Java) ジャワ島産


スリランカ/セイロン島
  ウバ (Uva) セイロン島南東部
  ヌワラ・エリヤ (Nuwara Eliya) セイロン島中央部
  ディンブラ (Dimbula) セイロン島中央部
  キャンディ (Kandy) セイロン島中央部
  ルフナ (Ruhuna) セイロン島南部

中国
  キーマン    (祁門紅茶)   安徽省祁門県


等級    茶葉の仕上げの茶葉形状で分類したものが等級(リーフグレード)

・オレンジペコー (Orange Pekoe、 OP)   
   茶葉の形状としては一番大きい茶葉

・フラワリー・オレンジペコー(Flowery Orange Pekoe、 FOP)
  オレンジペコー 等級並の大きさの茶葉で芯芽や若葉が多く含まれるもの

・ブロークン・オレンジペコー(Broken Orange Pekoe、BOP)
  オレンジペコと同じ茶葉を細かく砕いたもの

・ペコー(Pekoe、 P)
   ブロークン・オレンジペコーよりやや大きく、オレンジペコーやフラワリー・オレンジペコーより小さい茶葉

・フラワリー・ペコー(Flowery Pekoe、 FP)   ペコーで芯芽を多く含むもの

・ペコースーチョン(Pekoe Souchong、 PS)   ペコーよりも堅い葉からなる

・スーチョン(Souchong、 S)       ペコースーチョンよりも丸みがあり、大きくて葉は堅い。




収穫時期  旬によっても分類される

・早摘み茶 (Early First Flush)    ファーストフラッシュのうち、特に早い時期に摘んだもの

・ファーストフラッシュ (First Flush)    春摘みの紅茶。低温期に生産を行なわない地域での新茶

・セカンドフラッシュ (Second Flush)   夏摘み、もしくは2番摘みといわれる紅茶

・オータムナル (Autumn null)      秋茶とも呼ぶ。秋摘みという意味の紅茶

・ベスト・シーズン (Best season)      スリランカにおいて、特に生産量の増える季節のこと

・クオリティ・シーズン (Quality season)  スリランカで、特に高品質の茶葉が得られる季節のこと



スリランカ セイロンティー
・ハイグロウンティー 高地産の銘柄
 代表茶葉はウバ、ヌワラエリヤ、ディンブラ 三大ハイグロウンティーとされる
 スリランカの標高1200m(4000フィート)以上の高地で栽培されている茶葉を高地の製茶工場で生産した紅茶

・ミディアムグロウンティー 中地産の銘柄   代表茶はキャンディ
  スリランカの標高600〜1200m(2000〜14000フィート)で栽培されている茶葉を製茶工場で生産した紅茶

・ローグロウンティー   低地産の銘柄  代表茶葉はルフナ
    スリランカの標高600m(2000フィート)以下の低地にある製茶工場で生産される紅茶
 


収穫時期  旬によっても分類される

・早摘み茶 (Early First Flush)     ファーストフラッシュのうち、特に早い時期に摘んだもの

・ファーストフラッシュ (First Flush)   春摘みといわれる紅茶。低温期に生産を行なわない地域での新茶

・セカンドフラッシュ (Second Flush)   夏摘み、もしくは2番摘みといわれる紅茶

・オータムナル (Autumn null)   秋茶とも呼ぶ。秋摘みという意味の紅茶

・ベスト・シーズン (Best season)   スリランカにおいて、特に生産量の増える季節のこと。

・クオリティ・シーズン (Quality season) スリランカにおいて、特に高品質の茶葉が得られる季節のこと。


他には、
・ブリスク    紅茶特有の良い意味での渋みを表す言葉

・パジェンシー  紅茶の渋味を表現する言葉、渋みのなかでも爽やかかつ繊細なもの 

・タンニン    茶に含まれる成分で渋み成分のもと カテキン類の混合物で殺菌、抗菌作用、活性酸素を抑える作用のほか、口臭予防効果がある

・カフェイン   紅茶、コーヒー、緑茶、ココア、チョコレートに含まれる、アルカロイドの一種 
         カフェインには利尿作用や胃液の分泌を促進する作用、鎮痛作用などがある一方、
         感覚過敏、不眠などの作用もあるので飲用時間、摂取量には気を使うのがよさそうです。
        茶に含まれるカフェインはタンニンと結びつくためにカフェイン興奮作用は弱まり緩やかになります。
        紅茶においてはカフェイン濃度は高級品になるほど高くなります

・クリームダウン 
       熱い紅茶を放置したり、氷で急激に冷やしてアイスティーを造った時などに、紅茶の成分で あるタンニンとカフェインが結晶して白く濁る現象を言います。
        クリームダウンは、甘みや微量の熱を加えることで軽減することができます


・ベルガモット  果皮からとった精油で、アールグレイの香りの素  アールグレイの独特な香りはベルガモットを着香して造る

・シルバーチップ  茶葉は一芯二葉で摘み取られます。 この時の二葉の先にある芽をシルバーチップといいます。

・ジャンピング  ティーポットに熱湯を注いだ時に、茶葉がポットの中でくるくると上下に動くこと。
          対流が起こることで茶葉が充分に開き、香り、味わいのよい紅茶になります。
          茶葉がジャンプしているように見えることからこう呼ばれています


・水色   紅茶を淹れた時の紅茶の色のことです。
      読み方は、みずいろではなく「すいしょく」になります。
    紅茶の価値を決める要素のひとつで、澄んでいて、透明感の高いものが高品質とされます。
   茶葉、収穫時期、抽出時間、抽出方法で色合いは変わります。
   薔薇のような紅色から褐色、オレンジ、黄色まで風合いは様々です。
   オレンジ系の水色はタンニンが参加することで出来るテアフラビンによって、赤い色はテアルビジンによって発色します

 

紅茶のゴールデンルール

紅茶のゴールデンルールとは、紅茶本来の風味、香りを引き出すための基本ルールのこと
1、水はしっかり沸騰させること。
 2、茶葉はひとりにつき、ティースプーン1杯+ポット分1杯。
 3、沸騰したお湯をティーポットにいれて温めること。
   2〜3分置き、ポットが温もったらそのお湯は捨てる。
 4、ポットに必要分の茶葉を入れ、沸騰したてのお湯を入れて紅茶をだす。

 2番のポット1杯分に関しては、ヨーロッパと違い日本は軟水なので必要ありません。


・ゴールデンリング
紅茶をティーカップに注いだ時にカップの縁にできる金色の輪のこと。
  コロナとも呼ばれます。
  タンニンやフラボン色素を多く含む紅茶に現れることから、この輪ができるお茶は良質とされます。

・一芯二葉摘   新芽の先端から、芯芽とそれにつながる二枚の葉の部分を摘み取ることをいいます。

 茶葉の理想的な摘み方とされ、茶葉の最高級品はこの摘み方で作られます


・紅茶の日   11月1日   1983年に紅茶協会が定めました。
        1791年の11月1日に現在の三重県出身の船頭・大黒屋光太夫がエカテリーナ2世主催の茶会に招待を受けたことに由来します。
        この時、大黒屋光太夫は日本人として初めて紅茶を飲んだとされていることから日本ではこの日を紅茶の日としたようです。

・紅茶の保存方法
    口に樹脂パッキンがついている缶や瓶が密閉性が高くて紅茶の保存に向いています。
    湿気から茶葉を遠ざけるものを選びましょう。
    また、遮光性の高い容器に入れることで劣化を防ぐことができます。
    他に注意すべきは保管場所です。臭いの強いものとは分けること、冷蔵庫に入れない、日の当たる場所、高温多湿の場所も避けてください。




茶葉部位 等級区分  
   それぞれの製茶工場でできた荒茶はブレンド原料茶として仕上げる段階で、茶葉をサイズや形状で区分します。
 この工程のことを等級区分といいます。

 等級区分の際に、ふるいわけられた茶葉は分類のための記号をつけられます。

 記号の 割り振りに関して、
 現在はまだ国際的な統一基準はなく、
 製茶工場やふるいわけの機械の種類によって違っています。

 誤解されがちですが、
 等級区分でつけられる茶葉の種類を示す記号は、
 茶葉の形状、大きさを分けるためのものであり、葉の品質には関係ありません。

 品質の善し悪しは専門家が鑑定して決めます。

通常使われているサイズには、
 FOP (フラワリー・オレンジ・ペコー)、
 OP (オレンジ・ペコー)、
 P(ペコー) 、
 PS (ペコー・スーチョン)、
 S (スーチョン)、
 BOP(ブロークン・オレンジ・ペコー)、
 BP(ブロークン・ペコー)、
 BPS(ブロークン・ペコー・スーチョン)、
 BOPF(ブロークン・オレンジペコー・ファニングス)、
 D(ダスト)等があります。
 
 最近はティーバックの普及、海上輸送の効率化のために、
 小型のブロークンズタイプが人気となってきており、
 大型のリーフタイプのものの需要が減ってきています。

茶葉等級部位.png
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2015年03月28日

Eric Surdej - Ils sont fous ces coreens !

フランスで出版された韓国嫌韓本だと話題の書籍だそうです。

Ils sont fous ces coreens !
Eric Surdej著

Ils sont fous ces coreens !.jpg

エリック・シュールデジュ氏は、
「現地と融和しない韓国のビジネスモデルは、製品の革新が継続されているうちはいいが、革新性が落ちた瞬間に問題が表面化する」と指摘している。

http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/411835/

http://www.amazon.fr/Ils-sont-fous-ces-coreens/dp/2702144012/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1427528371&sr=8-1&keywords=eric+surdej



「1日10〜12時間仕事をした。休憩はランチ、ディナーの40分。土曜日も働いた。
日曜日には情報交換と称してゴルフ。個人の生活は考えていなかった。
会議で議論はほとんどなく、実績の数字だけを取り上げ、効率と結果だけを重視していた。
韓国人従業員は仕事中に椅子を投げたこともある。個人の性格や感情は無視された」

このように出版の内容を紹介しているサイトには書いてありますが・・・・


10年も働いたんですねぇ〜

日本企業で13年だから、30才前半から40代前半または各々年代の後半までを20代から日本と韓国の企業で働いたのでしょうか・・・


エグゼクティブならフランスでも働くのでしょうが・・・・
バカンスはどうだったのでしょうかね・・・

社員が椅子を投げると韓国企業の実例を紹介していますが、
私の経験でもやっている方をお見かけしたことはあります。

携帯で写真を撮ったら解雇ってのは、さすがに韓国ならではかも・・・


「効率と結果だけを重視していた」とありましたが、
NHKではないけれど、マッサンの登場人物でいえば、
サントリーの鳥居さんの話でも聞かせたいところですね・・・・


怒号が発せられると書いてあるようですが、
つい最近の日本の首相でも怒号で威圧が得意の方もありましたからね・・・・

選挙で落選しないのが、信じられませんけど・・・

日本のブラック企業の経営者の方も参考になさるといいと思いますが、

参考にするくらいの聞き耳あるはずもないか・・・・


「上司は言いたいことを言って、聞きたいことだけを聞く」
身内の韓国人としては、「これが朝鮮人の文化だ」とのコメントもあるそうです。

手を挙げたその、拳の落とし処を考える韓国の政治家はないんでしょうかねぇ・・・・
目先の対応も大事ですが、政治家なら5年10年先についても考えて欲しいものです。
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2015年03月27日

これはとても、日曜日に効きます。日曜日の歌です。SZOMORÚ VASÁRNAP / GLOOMY SUNDAY / 暗い日曜日



日曜日にそなえて たくさんの日曜日の歌をカバー曲集です。
なかなかと味のある歌曲です。
「暗い日曜日」
寂寥感をお試し下さい。

Erikah Badu - Gloomy Sunday (Das Lied vom traurigen Sonntag)



Hernádi Judit - Szomorú vasárnap


Palya Bea: SZOMORÚ VASÁRNAP / GLOOMY SUNDAY


Karel Gott - Szomorú vasárnap (Smutná nedéle)


Damia Sombre Dimanche Gloomy Sunday French version


Gloomy Sunday - Sarah McLachlan


gloomy sunday - 1940/2001 - various artists


The Smithereens Gloomy Sunday



Karin Krog - Gloomy Sunday


Gloomy Sunday - Iva Bittova


Sarah McLachlan Gloomy Sunday /live


TUNES OF DAWN - Gloomy Sunday


Elisabeth Fröhlich
Gloomy Sunday (Trauriger Sonntag) - Visual Guitar Interpretation



如何でしたか?
寂寥感に不足をお感じのあなたに追加してご案内致します。

これはとても、効きます。

「ロックン・ロールの自殺者」
David Bowie - Rock n Roll Suicide


続きを読む
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2015年03月26日

MONICA VITTI / ALLAIRE HEISIG

posted by a person at 20:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

掲載を忘れていた、麻生太郎さんのお話です。ピカチュウ他について話しています。

掲載を忘れていました。

麻生太郎さんの講演です。

麻生太郎さん「これ以上言うと、明日の新聞に乗りそうで危ないんだけど」


おまけです。

李登輝閣下の記者会見。靖国神社参拝の中国・韓国からの干渉について



わかりやすくてとてもいいかも・・・
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2015年03月25日

「珈琲時間」豊田 徹也さんの作品 漫画のご紹介です。


音楽や映画鑑賞と読書など、ご紹介していました。

生活に変化があって、なかなか書きたいけれど、気ののらない日々が続いていました。

そんな折に、妙齢のご婦人から「漫画は読みますか?」と提供のあったご本です。

「珈琲時間」 豊田 徹也さんの作品

「珈琲時間」.jpg

漫画は、人生で読書をするきっかけとなったものです。
本稿でも、こうの史代さんの作品などもご紹介していました。

「ペンと紙があれば、映画と同じ世界が描けます」と世界に比して濃密な文学としての背景も描けるとお話していました。

先回の本稿では、麻生太郎さん元首相の動画をご紹介していますが、

麻生さんの講演では、ピカチュウという漫画では「ピカ」と「チュウ」しか話せない動物(?)と意思の疎通を図っている漫画で、

「これは世界でも驚きの日本の文化だ」と話しておられます。

これをもっと世界へ発信しなくてならないのではないか・・・と講演でふれています。

さて、「珈琲時間」   帰宅の電車での車中にて一読の感想は・・・・・

「珈琲時間」豊田徹也さん作品 すぐり.jpg

「珈琲時間」 豊田徹也さん 作品 kiki the pixy.jpg


まず、思い出したのが星新一さんです。
以前にもご紹介したことがあります。

ショート・ショート集に「ノックの音がした」といタイトルのご本があります。

全編、ショート・ショートの書き出しが全て「ノックの音がした」でスタートします。

内容や展開は全て異なりますが、寂寥感、孤独感などの人間関係を「ノックの音がした」ところで物語をすすめています。


この「ノックの音がした」とこちらの「珈琲時間」はとても似ている、コンセプトが近似していると読みながら頭を掠めました。

「珈琲時間」は「生きる慰め」とか「人はいつ死んでしまうかわからない」とかを最終話で語らせています。

「星新一の孤独感、寂寥感に通じた背景を持つ作品だ」と直感してしまった訳であります。

最も、「ノックの音がした」を読んでから既に30年以上はたっているかも知れませんので・・・

また違ったこともあるのかも知れませんが・・・


珈琲という人生のスパイスを作者の観点で表現している訳ですが、ボトムとなっている世界観が星新一なのでは・・・との思い込みです。


何がそう思わせるのかはわかりません。


こうなってくると「珈琲」という飲み物は一体何なのだろうかとの思案にもあたりそうです。


英国は、紅茶の国と思われていますが、

英文学、ジェーン・オースチンなどの作品を読んでいると食後の珈琲について席を変わって催しされています。

食事 珈琲 とサロンを変えて進行して行きます。

午後のティーに呼ばれて催しするのとはまた違って珈琲の時間があるのです。


この午餐で飲む珈琲とはどんな珈琲なのかと最近考えていました。

この「珈琲時間」の漫画にある珈琲と味も香りも現在の珈琲と同じなのかしら・・・・



珈琲って何だろう・・・と最近考えていました。



ご興味を頂けましたか?

中々と役に立ちそうもない事柄ばかりなのに興味深くしている次第となっています。

追伸、
作者の画風ですが、
どこかで観たことのある どなたかののお弟子さんで、 系列なんだと思いますがちょっと思い出せない
わからないところがありました・・・
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2015年03月24日

朝日新聞の画像も掲載をそのまま転載しました。オーマイニュースです。

朝鮮語のニュースから転載しました。
http://www.ohmynews.com/

ohmynews.comです。
翻訳はGoogle翻訳です。悪しからずご了承を願います。

朝日新聞の画像も掲載をそのまま転載しました。
以下転載です。


韓国軍「特殊慰安隊」は、事実上の公娼
【創刊2周年記念発掘スクープ】韓国軍も「慰安婦」運用したA

記者が忠南論山の陸軍第2訓練所に入所した1980年当時までも論山訓練所のフェンスを超えると、いわゆる「毛布部隊」を満たすことができた。当時訓練兵だった記者が「毛布部隊」を直接目撃したわけではない訓練所助教や期間病は、自分たちが「毛布部隊」と遭遇し「激戦」を行った「冒険談」を好んで話したりした。

「毛布部隊」は、訓練所のフェンスの外毛布一枚を「武器 '訓練兵を相手にする売春婦たちの俗称。このようなリムーバブル私娼形態の毛布部隊員話は美談や神話のように聞こえたりした。しかし、軍が直接元の袋を設置して運用したら問題が変わる。


▲韓国軍の韓国戦争期間「慰安婦」運用の事実を報道した日本の「朝日新聞> 2月24日付けの記事。(太い船内)

朝日新聞.jpg

去る2月22日<オーマイニュース>の「韓国軍も慰安婦運用した」は、発掘の記事の最初の分が報道された後、読者の反応は大きく三つに分類することができる。

まず、軍の暗い恥部を公開して反省しようということ。第二に、旧(舊)日本軍慰安婦(慰安婦)制度とは、他の共創(公娼)なので違法ではないということ。そして最後は赤線でも私娼群が展示(戰時)に士気高揚のために慰安婦を利用したもの何が間違ってか、というものである。この2回分の記事は、主にその二番目の反応と直結された回答を盛り込んでいる。

この発掘企画記事の初回分で見たように、韓国軍が1951年ごろから1954年までの「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を導入して運用したのは、紛れもない歴史的事実である。そのような事実は陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である「後方戦史(後方戰史)>(人事編)と目撃者たちの証言によって裏付けされている。

<後方戦史>に掲載された「特殊慰安隊実績統計表」は、1952年に4つの小隊に編成された元の89人、年間20万4560人の兵力を「元」したと記録している。慰安婦1人が1日平均6〜7人の将兵を元したものである。また、チェ名臣チァギュホンギムフィオなど予備役将軍たちも韓国戦争期間に経験した慰安婦制度について「さらしたくない恥ずかしい軍部の恥部だが事実である」と証言している。

もちろん、韓国軍慰安婦制度は旧日本軍「従軍慰安婦」制度を真似た痕跡もかかわらず、二制度は本質的に異なっている。韓国軍慰安婦は慰安婦動員方式や規模などでも旧日本軍従軍慰安婦とは比較にならないが、何よりも後者は強制を帯びている国動員体制の一環として、施行された点が異なる。

しかし、そのような根本的な違いにもかかわらず、韓国軍元台設置の動機や運用方法の面で日本軍従軍慰安婦制度をまねて似たような姿をしたこともまた事実である。例えば慰安所の前で列をなして慰安婦を待っている軍人と戦闘力の損失を防ぐために定期的に性病検査をする軍医の様子などは、日本軍の従軍慰安所の風景と変わらないのである。

また、軍票(日本軍)の代わりにチケット(韓国軍)のような対価が支払われた取引の形式で運用された点も似ている似たような姿である。日本の右翼は、これを前に出してくん慰安所制度を一種の公娼制のようなものを正当化することもある。しかし、軍票は、日本の主要な銀行がいつでもお金に交換してくれる一種の「有価証券」だった。また、公娼制が国が女性の性を制御した場合は、慰安所の場合は、展示という状況で、国家よりも強力な力を発揮する群が管理・運営の主体であるという点で被害女性たちの人権蹂躙はより深刻になるしかなかった。

韓国軍「特殊慰安隊」は、事実上の公娼

しかし、注目すべき事実は、当時国軍が設置し、運営したが「特殊慰安隊」、すなわち固定式慰安所の性格が事実上の公娼だったという点である。例えば軍の公式記録には、「休戦に応じて、これらの施設の設置目的がヘソドゥェムに至って公娼廃止の潮流に従順(順命)して短期4287年3月、これを一斉に閉鎖した」(<後方戦史> 148~149ページ)となっている。軍自らが「特殊慰安隊」を共創的に認められているのである。

短期(檀紀)を西暦(西紀)に換算すると、慰安所を「一斉に閉鎖」した時点では1954年3月である。ところが、1947年11月11日、米軍政庁が公布した公娼廃止領(法律第7号)が施行された時点は、1948年2月からである。明確な証拠はないが慰安所設置時は、1951年に推定される。したがって、軍は公娼廃止領にもかかわらず、1951年から1954年までの約3年間不法に赤線を設置・運営した違法行為を行ったものである。

結局、君が「公娼廃止の潮流に従順して慰安所を閉鎖した」という記録は、一見すると事実のようだが、実際には自分の違法行為を隠蔽するために事実を巧みに歪曲したものである。軍は、政府の公娼廃止領にもかかわらず、事実上の公娼を3年間も不法に運営がら「公娼廃止の潮流に従順して閉鎖」したかのように記録しているからである。

その後、韓国戦争当時、軍の慰安所を設置・運営する違法行為の主体は誰なのか。これについては、まだ明確な証拠や証言を見つけることができない。ただし、韓国軍の「慰安台」運用の事実を最初に提起したギムグィオック博士(慶南大​​北朝鮮専門大学院客員​​教授)は、「後方戦史>と予備役将軍たちの回顧録そして関係者の証言などをもとにこう主張する。


"「特殊慰安隊」、つまり軍慰安所は軍隊によってインストールされましたのは間違いない事実である。当時、韓国軍の作戦システム上軍元台のインストールと管理の問題について、上には国連軍の最終的な承認を得て運営されていると推定され、下には、特殊な元大隊長の責任の下で総括されているものと思われる。」


国連軍の最終的な承認の下で動作されたという推測は、1950年7月、韓国政府が陸・海・空軍の作戦指揮権を国連軍総司令官に委任したことの根拠を置いている。しかし、<後方戦史>も明らかにしているように、慰安所の運営は電線ではなく、後方に限定されていた。また、元のインストールは、作戦指揮権の範疇に含まれていないため、国連軍の最終的な承認の下で動作されたという推測は、説得力が落ちて見える。

しかし、当時の国防部と陸軍の首脳部は、このような不法行為の責任で自由になれないと思われる(国防部に合同参謀会議が設置された時点では「特殊慰安隊」を閉鎖するわずか一ヶ月前の1954年2月であるため、合同参謀は慰安婦設置・運営の係留対象から除外される)。


▲丁一権元陸軍参謀総長。韓国戦争当時、日本軍「慰安婦」制度を真似た「特殊慰安隊」を軍にインストールした不法行為の重要な責任者の一人と推定される。
慰安所を設置・運営した時点の歴代陸軍参謀総長は、△5大丁一権中将(1950 6~1951。6)△6台・ジョンチャン中将(1951. 6~1952。7)△7台バックソンヨブ隊長(1952. 7 ~1954。2)△8台丁一権隊長(1954 2~1956。6)などである。 1951年に推定されるインストールの時点で見ると、丁一権・ジョンチャン二総長の一人である。

1948年創軍当時の軍首脳部人脈がほとんど日本軍・関東軍出身だったが、両方の総長すべて日本陸軍士官学校出身である。韓国戦争時代に慰安婦制度を目撃したギムフィオ将軍(予備役陸軍少将)の「過去の日本軍の従軍経験があるいくつかの連帯幹部が負荷詐欺高揚のための発想から始まった」という証言は、その手がかりを提供する。ギムグィオック博士も「軍慰安婦創設の企画者が明らかに日本軍や関東軍出身者であるか、それに影響を受けた者と推定することができる」と言う。

軍関係者は、イ・ジョンチャン総長が1952年に釜山政治波動とき軍の政治的中立を力説した「真の軍人の象徴」とみなされてきた点に照らして、一度丁一権総長側軍慰安台設置・運営の可能性の比重を大きく置く。一方、当時の国防部長官の中では、第2代申性模長官(1949 3~1951。5)と第3代李起鵬長官(1951. 5~1952。3)の一人がインストールを承認したものと推定される。

韓国軍慰安婦、これらは誰なのか?

その後、さすがに軍慰安婦、これらは誰だろうか。ところが、既存の材料どこにも慰安婦正体に対する言及はない。ギムグィオック博士によると、ちょうどある文献では、少なくない帰還日本軍慰安婦たちが韓国戦争当時性(性)売買業に流れて行ったウリラヌン経験文に基づく推定1回だけだ。 1996年から束草でウォルナムミン研究をしてから初めて韓国軍慰安婦問題に関心を持って関係者へのインタビューしてきたキム博士の推定によると、慰安婦の正体とタイプは、いくつかの種類に分けられる。

キム博士がまず注目したのは、たとえ小規模ではあるが、日本軍国主義の「慰安婦」の募集形態を瓜二つの形態の慰安婦が存在したという事実である。それは、北派工作員と慰安婦の「不幸な出会い 'だった。匿名を要求した北派工作員出身者とのインタビューを通じて金博士が明らかにしたが、最初のタイプは、拉致と強姦によって「慰安婦」になった事例である。

ムンアムゲ(69)氏は、1951年5月頃原産先に海の島から他の女性同盟員3人と一緒に集まっているが、当時原産の前の海のであってもで諜報工作活動をしていた北派工作員に拉致されたがその中の一人(この某下士官)にスポイラーれた後に強制的に「慰安婦」になったケース。

ムン氏は、最終的に1953年7月停電になるまでであってもで以下士官の子供を産んでのように住んでいた。一緒に拉致された他の女性たちも、昼には軍人たちのご飯と洗濯をして、夜には、「慰安婦」にならなければした。このようなことは近隣の譲渡でもあった。

キム博士によると、ムンさんを拉致した北派工作員チェ某氏は「部隊内に慰安婦を連れているのは間違っているが、「私たち」が「日本軍」とは異なっていないか、私たちとは情が通じないのかと拉致した慰安婦問題に対する説明を濁し」ということだ。もう一つのタイプは、本隊と離れて独立して調理生活をしなければならいた北派工作員部隊員たちが「慰安婦」を雇った場合。金博士は、自分の論文では、これらの正体についてこう述べている。


「北派工作員1は、軍の慰安婦は専門的に体を売る女性たちだったと一蹴した。北派工作員2もこれに同意した。しかし、北派工作員1または2があった原産の前の島に慰安婦に来た女性は「その島に軍人たちご飯と洗濯してくれればな元手枚することができる」という話にだまされて来工作員2は、すれ違う証言をした。戦争未亡人として生活苦に苦しめられて一種の「君の労働者」になったのは、彼の選択だったとしても軍慰安婦になったのは、拒否することができない強制的な状況で起こったことであった。さらに、拉致された女性に選択や拒否権は与えられなかった。」



▲韓国戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍の看護婦2人。当時、逮捕された北朝鮮の女性の一部は、強姦されたり、強制的に「慰安婦」になった。
1950年当時の医学生だったが某(73)氏は、拉致や強制することにより軍慰安婦になるところだった別の女性の事例である。 6・25当時、ソウルに残ったが人民軍に協力したことにより、国軍に逮捕された李さんは、他の女性の医学生3人と一緒に引き継がれた袋の将校4人に「割り当て」になった。この種は、幸いなことに、自分自身を哀れに思った将校の助けを借りて釈放された他の3人はそれ以来二度と見られなかった。

拉致や強制することにより、事実上の軍「慰安婦」の役割をした事例は多くないが、韓国戦争に参戦した予備役将軍たちの回顧録にも一部登場する。 1951年8月の陸軍少尉(総合31期)に任官し、1984年8月陸軍所長に除隊したギムフィオ将軍の回顧録<人間の香り>(2000年)がそれである。

1951年8月任官するやいなや東部戦線首都社団(師団長ソングヨチァン)に配属されて香炉峰戦闘に参加したギムフィオ将軍が当時率いた小隊員はほとんど可能性があり師団が咸鏡道に進撃したが、中共軍の介入で興南撤収作戦時に大同(帶同)ベトナムた主咸興 - 原産地域の高校出身の現地入隊若者たちだった。ところが、当時の国軍は男子だけでなく、いくつかの女子高生たちも「特殊目的」で大同越したものと見られる。

北朝鮮の女性拉致して「慰安婦」として利用することも

ギムフィオ将軍の回顧録によると、後に電線をすり抜けて来た首都社団は1951年11月〜1952年4月に智異山共沸討伐作戦に動員され、当時南原にあるバックソンヨブ将軍が率いる西南地区の戦闘司令部隷下主力部隊で8分割など合同で作戦に参加した。金将軍は小隊長時代討伐作戦の途中で、智異山の戦闘地域指揮所で目撃した光景をこのように記録している。


「大隊長のテントの中で分明戦闘服を着用した女の子の一人が出て伸びを伸ばして体操をしているではないか!選任軍曹にどういうわけか尋ねてみると、大隊長が北進当時咸興女子高生を愛妾に伴う、撤退して作戦期間中順天に引き取ったが最近OPで伴ったということだった。しばらくして、大隊長室で手水大佐の指示があったのか当番兵が飯ごうで水を暖め持って行っていた。 "



▲韓国戦争直前に当時38線以南甕津半島を訪問し、女子学生たちの受け入れを受けた国連の現場視察。 1950年10月〜12月、北朝鮮地域を占領した米軍と韓国軍の一部将校たちは中共軍の介入で後退しながら、いくつかの女子学生を「特別な目的」と大同ベトナムたことが分かった。
金将軍は当時行軍するとき布団寝具と女性の化粧箱が戦闘小隊院の隊列の中でリュックサックの上におまけで乗って行く悲しい現実を目撃して怒ったが、占領地での強姦と拉致は事実一度や二度した状況だった。 「軍慰安婦」になる所だった前の李某氏と国軍出身で人民軍解放戦士になった非転向長期囚量定号さんや他の国軍出身者たちの証言によると、国連軍と国軍は1950年10月〜12月、北朝鮮地域を占領しばらくの間、多くの民間女性を強姦したものと見られる。これに対してギムグィオック博士はこう推定する。


「特に左翼賦役疑いがある若い女性の強姦は、実際のと仮想の制御および順治方式の一つであった。非公式に1950年にも軍慰安婦や元台存在したとみられ、むしろ軍の風紀紊乱を憂慮して1951年以来、軍の元台を公式創設し、一線部隊でも非定期的に軍の慰安婦を動員したと思われる。」


そして、このように民間人強姦と拉致によって既に「慰安婦」生活を経験した女性たちの多くは、自暴自棄の心情で私娼で流れて行って、再び「従軍慰安婦」という公娼に編入されている悪循環を重ねたものと見られる。

予備役将軍たちが覚えているもう一つのタイプは、売春宿で買った貧しい女性たちに関するものである。このような女性たちのための「元」の対価は、社団ヒュルビョン部や連帯の挨拶先で過ごすというのだ。しかしこれらの証言でも現われる明らかな事実は戦時下にトゥクビョルウィ眼帯を利用することに加えて、前方の部隊は、必要に応じ軍慰安婦を採用することができたのはと思われる。だからギムグィオック博士は、軍当局が明らかにした元の廃止時にも、次の問題を提起する。


「軍部隊が公式運営した公娼としての元代1954年3月に消滅したのか分からないが、北派工作員の証言では、事実上の元台存在している。その元台私娼の形式で存在するが、軍部隊が公式「厚生」の名目で支出して北派工作員の賞の形で存在してきたようだ。」


その後、韓国戦争当時、韓国軍慰安婦の規模はどの程度だったのか。ギムグィオック博士は「現在としては韓国戦争当時、公式・非公式慰安婦の規模を知る術がない」と前提しながらも、「ただ戦争直前私娼の規模を上回るすると仮定するだけだ」と言う。


▲韓国戦争期間後方で行われた「ラット作戦」(共沸討伐作戦)で生け捕りされた女性ゲリラ。これらの中には、軍の「慰安婦」に動員されたという疑惑が提起されている。
しかし、関連記録によると、1947年11月、米軍政庁が公娼廃止領を発表する直前の1947年10月20日現在共創の規模は、2124人だった。しかし、翌年2月公娼廃止領が発効された後の1948年10月末になると私娼は5万人に急増している。また、韓国戦争が終わった後のマーケティングをする女性は、30万人に増える。公娼が廃止され私娼は急増したものである。

一部の女性の学者は、このように性売買女性が増えたのは生活苦だけでなく、「日帝末期数千人の慰安婦たちが解放後、故国に入ってきて、生計を引き継ぐことができできず、ペナントに転落」したところも原因があったと推定される。しかし一方では、以前紹介した場合のように、民間の女性が誘拐と強制の形で慰安婦になった事例もあったのだ。次はキム博士の指摘である。

「もし一歩譲歩して軍隊慰安婦が過去のボール・私娼出身あったとしても、韓国戦争戦前(戰前)5万人のボール・私娼が前後30万人に増えた問題と関連付けて表示するときに説明されない。軍慰安婦がどのように動員され、その規模はどの程度だったのかについて確実に究明することはできなくても、まだ韓国戦争当時、軍部の責任を引き受けた者が生存しておりますので、政府当局は、この問題について真相を究明する責任がある」

http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635

한국군 '특수위안대'는 사실상의 공창
[창간 2주년 기념 발굴특종] 한국군도 '위안부' 운용했다 A

기자가 충남 논산의 육군 제2훈련소에 입소한 1980년 당시까지만 해도 논산훈련소 담장을 넘으면 이른바 '담요부대'를 만날 수 있었다. 당시 훈련병이었던 기자가 '담요부대'를 직접 목격한 것은 아니지만 훈련소 조교나 기간병들은 자신들이 '담요부대'와 조우해 '격전'을 치른 '무용담'을 곧잘 얘기하곤 했다.

'담요부대'는 훈련소 담장 밖에서 담요 한 장을 '무기' 삼아 훈련병들을 상대하는 창녀들의 속칭. 이런 이동식 사창 형태의 담요 부대원 이야기는 미담이나 신화처럼 들리기도 했다. 그러나 군이 직접 위안부대를 설치해 운용했다면 문제가 달라진다.


▲한국군의 한국전쟁 기간 '위안부' 운용 사실을 보도한 일본 <아사히신문> 2월24일자 기사.(굵은 선내)

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지난 2월22일 <오마이뉴스>에 '한국군도 위안부 운용했다'는 발굴기사의 첫 회분이 보도된 이후 독자의 반응은 크게 세 가지로 분류할 수 있다.

첫째, 군의 어두운 치부를 공개하고 반성하자는 것. 둘째, 구(舊) 일본군 위안부(慰安婦) 제도와는 다른 공창(公娼)이므로 불법은 아니라는 것. 그리고 마지막은 공창이건 사창이건 군이 전시(戰時)에 사기진작을 위해 위안부를 이용한 것이 뭐가 잘못이냐는 것이다. 이 2회분 기사는 주로 그 두 번째 반응과 직결된 답변을 담고 있다.

이 발굴기획 기사의 첫 회분에서 살펴보았듯이, 한국군이 1951년 무렵부터 1954년까지 '특수위안대'라는 이름으로 고정식 혹은 이동식 위안부 제도를 도입해 운용했음은 부인할 수 없는 역사적 사실이다. 그런 사실은 육군본부가 1956년에 편찬한 공식기록인 <후방전사(後方戰史)>(인사편)와 목격자들의 증언으로 뒷받침된다.

<후방전사>에 실린 '특수위안대 실적통계표'는 1952년도에 4개 소대로 편성된 위안대 89명이 연간 20만4560명의 병력을 '위안'했다고 기록하고 있다. 위안부 1명이 하루 평균 6∼7명의 장병을 위안한 것이다. 또 채명신・차규헌・김희오 등 예비역 장군들도 한국전쟁 기간에 경험한 위안부 제도에 대해 "드러내고 싶지 않은 부끄러운 군부의 치부이지만 사실이다"고 증언하고 있다.

물론 한국군 위안부 제도는 구 일본군 '종군위안부' 제도를 흉내낸 흔적에도 불구하고 두 제도는 본질적으로 다르다. 한국군 위안부는 위안부 동원방식이나 규모 등에서도 구 일본군 종군위안부와 비교가 안되지만, 무엇보다도 후자는 강제성을 띠고 있는 국가 동원체제의 일환으로 시행되었다는 점이 다르다.

그러나 그 같은 근본적인 차이에도 불구하고 한국군 위안대는 설치 동기나 운영 방식 면에서 일본군 종군위안부 제도를 흉내내 비슷한 모습을 한 것 또한 사실이다. 이를테면 위안소 앞에서 줄을 지어 위안부를 기다리는 군인들과 전투력 손실을 방지하기 위해 정기적으로 성병 검진을 하는 군의관의 모습 등은 일본군 종군위안소의 풍경과 다를 바 없는 것이다.

또 군표(일본군) 대신에 티켓(한국군) 같은 대가가 지불된 거래형식으로 운용된 점도 외형상으로 비슷한 모양새이다. 일본 우익은 이를 내세워 군 위안소 제도를 일종의 공창제와 같은 것으로 정당화하기도 한다. 그러나 군표는 일본의 주요 은행들이 언제든지 돈으로 교환해주는 일종의 '유가증권'이었다. 또 공창제가 국가가 여성의 성을 통제한 경우라면 위안소의 경우는 전시라는 상황에서 국가보다 더 강력한 힘을 발휘하는 군이 관리・운영의 주체라는 점에서 피해 여성들에 대한 인권유린은 더 극심할 수밖에 없었다.

한국군 '특수위안대'는 사실상의 공창

그런데 주목할 사실은 당시 국군이 설치해 운영한 이 '특수위안대', 즉 고정식 위안소의 성격이 사실상의 공창이었다는 점이다. 이를테면 군의 공식기록에는 "휴전에 따라 이러한 시설의 설치 목적이 해소됨에 이르러 공창 폐지의 조류에 순명(順命)하여 단기 4287년 3월 이를 일제히 폐쇄하였다"(<후방전사> 148∼149쪽)고 되어 있다. 군 스스로가 '특수위안대'를 공창으로 인정하고 있는 것이다.

단기(檀紀)를 서기(西紀)로 환산하면, 위안소를 '일제히 폐쇄'한 시점은 1954년 3월이다. 그런데 1947년 11월11일 미 군정청이 공포한 공창폐지령(법률 제7호)이 발효된 시점은 1948년 2월부터이다. 명확한 기록은 없지만 위안소 설치 시점은 1951년으로 추정된다. 따라서 군은 공창폐지령에도 불구하고 1951년부터 1954년까지 약 3년간 불법으로 공창을 설치・운영한 범법행위를 자행한 것이다.

결국 군이 '공창 폐지의 조류에 순명해 위안소를 폐쇄했다'는 기록은 얼핏 보면 사실인 것 같지만 실제로는 자신의 범법행위를 은폐하기 위해 사실을 교묘하게 왜곡한 것이다. 군은 정부의 공창폐지령에도 불구하고 사실상의 공창을 3년 동안이나 불법으로 운영했으면서도 '공창 폐지의 조류에 순명해 폐쇄'한 것처럼 기록하고 있기 때문이다.

그렇다면 한국전쟁 당시 군 위안소를 설치・운영하는 범법 행위의 주체는 누구일까. 이에 대해서는 아직 명확한 기록이나 증언을 찾을 수 없다. 다만 한국군의 '위안대' 운용 사실을 처음 제기한 김귀옥 박사(경남대 북한전문대학원 객원교수)는 <후방전사>와 예비역 장군들의 회고록 그리고 관련자의 증언 등을 토대로 이렇게 주장한다.


"'특수위안대', 즉 군 위안소는 육군에 의해 설치되었음은 틀림없는 사실이다. 당시 한국군의 작전체계상 군 위안대의 설치 및 관리문제에 대해 위로는 유엔군의 최종 승인 하에 운영되었을 것으로 추정되며, 아래로는 특수위안대 부대장의 책임 하에 총괄되었을 것으로 보인다."


유엔군의 최종 승인 하에 운영되었을 것이라는 추정은 1950년 7월 한국 정부가 육・해・공군의 작전지휘권을 유엔군 총사령관에게 위임한 것에 근거를 두고 있다. 그러나 <후방전사>도 밝히고 있듯이, 위안소 운영은 전선이 아닌 후방에 국한되어 있었다. 또 위안대 설치는 작전지휘권의 범주에 포함되지 않기 때문에 유엔군의 최종 승인하에 운영되었을 것이라는 추정은 설득력이 떨어져 보인다.

그러나 당시 국방부와 육군의 수뇌부는 이와 같은 불법행위의 책임에서 자유로울 수 없는 것으로 보인다(국방부에 합동참모회의가 설치된 시점은 '특수위안대'를 폐쇄하기 불과 한 달 전인 1954년 2월이므로 합참은 위안부 설치・운영의 계선 상에서 제외된다).


▲ 정일권 전 육군 참모총장. 한국전쟁 당시 일본군 '위안부' 제도를 흉내낸 '특수위안대'를 군에 설치한 불법행위의 핵심 책임자 중의 한 사람으로 추정된다.
위안소를 설치・운영한 시점의 역대 육군 참모총장은 △5대 정일권 중장(1950. 6∼1951. 6) △6대 이종찬 중장(1951. 6∼1952. 7) △7대 백선엽 대장(1952. 7∼1954. 2) △8대 정일권 대장(1954. 2∼1956. 6) 등이다. 1951년으로 추정되는 설치 시점으로 보면 정일권・이종찬 두 총장 중 한 사람이다.

1948년 창군 당시의 군 수뇌부 인맥이 대부분 일본군・관동군 출신이었지만, 두 총장 모두 일본 육사 출신이다. 한국전쟁 시절에 위안부 제도를 목격한 김희오 장군(예비역 육군 소장)의 "과거 일본 군대 종군 경험이 있는 일부 연대 간부들이 부하 사기 앙양을 위한 발상에서 비롯된 것"이라는 증언은 그에 대한 단서를 제공한다. 김귀옥 박사도 "군 위안부 창설의 기획자가 분명 일본군이나 관동군 출신자이거나 그에 영향을 받은 자로 추정할 수 있다"고 밝힌다.

군 관계자들은 이종찬 총장이 1952년 부산 정치파동 때 군의 정치적 중립을 역설한 '참 군인의 상징'으로 간주되어온 점에 비추어 일단 정일권 총장 쪽에 군 위안대 설치・운영 가능성의 비중을 크게 둔다. 한편 당시 국방부장관 중에서는 제2대 신성모 장관(1949. 3∼1951. 5)과 제3대 이기붕 장관(1951. 5∼1952. 3) 중 한 사람이 설치를 승인했을 것으로 추정된다.

한국군 위안부, 이들은 누구인가?

그렇다면 과연 군 위안부, 이들은 누구일까. 그런데 기존의 자료 어디에도 위안부 정체에 대한 언급은 없다. 김귀옥 박사에 따르면, 다만 몇몇 문헌에서는 적지 않은 귀환 일제 군 위안부들이 한국전쟁 당시 성(性) 매매업으로 흘러들어 갔으리라는 경험적 진술에 따른 추정만 있을 뿐이다. 1996년부터 속초에서 월남민 연구를 하면서부터 처음 한국군 위안부 문제에 대해 관심을 갖고 관련자들을 인터뷰해온 김 박사의 추정에 따르면 위안부의 정체와 유형은 몇 가지로 나뉜다.

김 박사가 우선 주목한 것은, 비록 소규모이긴 하지만 일본 군국주의의 '위안부' 모집 형태를 쏙 빼 닮은 형태의 위안부가 존재했다는 사실이다. 그것은 바로 북파공작원과 위안부의 '불행한 만남'이었다. 익명을 요청한 북파공작원 출신 인사들과의 인터뷰를 통해 김 박사가 밝힌 이 첫 번째 유형은 납치와 강간에 의해 '위안부'가 된 사례이다.

문아무개(69) 씨는 1951년 5월경 원산 앞 바다에 있는 섬에서 다른 여맹원 3명과 함께 모여 있다가 당시 원산 앞 바다의 여도에서 첩보공작활동을 하던 북파공작원들에게 납치당했다가 그중 한 명(이아무개 하사관)에게 겁탈 당한 후에 강제로 '위안부'가 된 케이스.

문 씨는 결국 1953년 7월 정전이 될 때까지 여도에서 이하사관의 아이를 낳고 같이 살았다. 함께 납치된 다른 여성들도 낮에는 군인들의 밥과 빨래를 하고 밤에는 '위안부'가 되어야 했다. 이런 일은 인근 양도에서도 있었다.

김 박사에 따르면 문씨를 납치한 북파공작원 최아무개 씨는 "부대 내에 위안부를 데리고 있는 것은 잘못이지만, '우리'가 '일본군'과는 다르지 않느냐, 우리와는 정이 통하지 않느냐며 납치한 위안부 문제에 대한 설명을 흐렸다"는 것이다. 또 다른 유형은 본대와 떨어져 독립적으로 취사생활을 해야 했던 북파공작원 부대원들이 '위안부'를 고용한 케이스. 김박사는 자신의 논문에서 이들의 정체에 대해 이렇게 밝히고 있다.


"북파공작원 1은 군 위안부들은 직업적으로 몸을 파는 여성들이었다고 일축했다. 북파공작원 2도 이에 동의했다. 그런데 북파공작원 1이나 2가 있던 원산 앞 섬에 위안부로 온 여성은 '그 섬에 와 군인들 밥하고 빨래해주면 한 밑천 장만할 수 있다'는 얘기에 속아왔다고 공작원 2는 엇갈리는 증언을 했다. 전쟁 미망인으로서 생활고에 시달리면서 일종의 '군 노무자'가 된 것은 그의 선택이었다고 하더라도 군 위안부가 된 것은 거절할 수 없는 강제적인 상황에서 일어난 일이었다. 더욱이 납치된 여성들에게 선택권이나 거절권은 주어지지 않았다."



▲ 한국전쟁 기간에 한국군과 미군이 체포한 인민군 간호원 2명. 당시 체포된 북한 여성의 일부는 강간당하거나 강제로 '위안부'가 되었다.
1950년 당시 의과대학생이었던 이아무개(73) 씨는 납치 또는 강요에 의해 군 위안부가 될 뻔했던 또 다른 여성의 사례이다. 6・25 당시 서울에 남았다가 인민군에게 협력한 것 때문에 국군에게 체포된 이 씨는 다른 여자 의대생 3명과 함께 인계된 부대의 장교 4명에게 '배정'되었다. 이 씨는 다행히 자신을 불쌍히 여긴 한 장교의 도움으로 풀려났으나 다른 3명은 그때 이후 다시는 볼 수가 없었다.

납치 또는 강요에 의해 사실상의 군 '위안부' 노릇을 한 사례는 많지 않지만 한국전쟁에 참전한 예비역 장군들의 회고록에도 일부 등장한다. 1951년 8월 육군 소위(종합31기)로 임관해 1984년 8월 육군 소장으로 예편한 김희오 장군의 회고록 <인간의 향기>(2000년)가 그것이다.

1951년 8월 임관하자마자 동부전선 수도사단(사단장 송요찬)에 배속되어 향로봉 전투에 참가했던 김희오 장군이 당시에 이끈 소대원들은 대부분 수도사단이 함경도에 진격했다가 중공군의 개입으로 흥남 철수작전시에 대동(帶同) 월남한 주로 함흥-원산지역 고교 출신의 현지 입대 청소년들이었다. 그런데 당시 국군은 남학생들뿐만 아니라 일부 여고생들도 '특수 목적'으로 대동 월남했던 것으로 보인다.

북한 여성 납치해 '위안부'로 이용하기도

김희오 장군의 회고록에 따르면, 이후 전선을 빠져 나온 수도사단은 1951년 11월~1952년 4월 지리산 공비 토벌작전에 동원되어 당시 남원에 위치한 백선엽 장군이 이끄는 서남지구 전투사령부 예하 주력부대로 8사단 등과 합동으로 작전에 참여했다. 김 장군은 소대장 시절 토벌작전 도중에 지리산의 전투지역 지휘소에서 목격한 광경을 이렇게 기록하고 있다.


"대대장 천막 속에서 분명코 전투복을 착용한 소녀 한 명이 나와서 기지개를 펴고 체조를 하고 있는 것이 아닌가! 선임하사에게 어찌된 영문인지 물어보니 대대장께서 북진 당시 함흥 여고생을 애첩으로 동반, 철수하여 작전기간 중 순천에 모셨다가 최근 OP로 동반하였다는 것이었다. 얼마 후 대대장실에서 세숫물 대령 지시가 있었는지 당번병이 반합으로 물을 데워 가져가고 있었다."



▲ 한국전쟁 직전에 당시 38선 이남인 옹진반도를 방문해 여학생들의 영접을 받은 유엔 현장시찰단. 1950년 10월∼12월 북한 지역을 점령한 미군과 한국군의 일부 장교들은 중공군의 개입으로 후퇴하면서 일부 여학생들을 '특수목적'으로 대동 월남한 것으로 드러났다.
김 장군은 당시 행군할 때 솜이불 침구와 여자 화장품 상자가 전투 소대원의 대열 속에서 배낭 위에 덤으로 얹혀 가는 슬픈 현실을 목도하고 분노했지만, 점령지에서의 강간과 납치는 사실 비일비재한 상황이었다. '군 위안부'가 될 뻔했던 앞서의 이아무개 씨와 국군 출신으로 인민군 해방전사가 된 비전향장기수 양정호 씨나 다른 국군 출신자들의 증언에 따르면, 유엔군과 국군은 1950년 10월∼12월 북한 지역을 점령한 동안 상당수의 민간 여성들을 겁탈했던 것으로 보인다. 이에 대해 김귀옥 박사는 이렇게 추정한다.


"특히 좌익 부역혐의가 있는 젊은 여성에 대한 강간은 실제 및 가상적에 대한 통제 및 순치 방식의 하나였다. 비공식적으로 1950년에도 군 위안부나 위안대는 존재했던 것으로 보이며, 오히려 군의 풍기 문란을 우려하여 1951년 이후 군 위안대를 공식 창설했고 일선 군부대에서도 비정기적으로 군 위안부를 동원했던 것으로 보인다."


그리고 이처럼 민간인 강간과 납치에 의해 이미 '위안부' 생활을 경험한 여성들의 상당수는 자포자기의 심정으로 사창으로 흘러들어 갔다가 다시 '군 위안부'라는 공창으로 편입되는 악순환을 거듭한 것으로 보인다.

예비역 장군들이 기억하는 또 다른 유형은 사창가에서 사들여온 가난한 여성들에 관한 것이다. 이런 여성들에 대한 '위안'의 대가는 사단 휼병부나 연대 인사처에서 지출했다는 것이다. 그러나 이들의 증언에서도 드러나는 분명한 사실은 전시 하에 특별위안대를 이용하는 것 이외에도 전방의 부대들은 필요시 군 위안부를 채용할 수 있었건 것으로 보인다. 그래서 김귀옥 박사는 군 당국이 밝힌 위안대 폐지 시점에 대해서도 다음과 문제를 제기한다.


"군부대가 공식 운영했던 공창으로서의 위안대는 1954년 3월에 소멸했는지 모르지만, 북파공작원의 증언에서는 사실상의 위안대가 존재하고 있다. 그 위안대는 사창의 형식으로 존재하지만 군부대가 공식적인 '후생비'의 명목으로 지출하고 북파공작원에 대한 포상의 형태로 존재해왔던 것 같다."


그렇다면 한국전쟁 당시 한국군 위안부의 규모는 어느 정도였을까. 김귀옥 박사는 "현재로선 한국전쟁 당시 공식・비공식적 위안부 규모를 알 길이 없다"고 전제하면서도 "다만 전쟁 직전 사창의 규모를 능가할 것이라고 추정할 뿐이다"고 말한다.


▲ 한국전쟁 기간 후방에서 진행된 '쥐잡기 작전'(공비토벌작전)에서 생포된 여성 게릴라들. 이들 가운데 일부는 군 '위안부'로 동원되었을 것이라는 의혹이 제기되고 있다.
그런데 관련 기록에 따르면, 1947년 11월 미 군정청이 공창폐지령을 발표하기 직전인 1947년 10월20일 현재 공창의 규모는 2124명이었다. 그러나 이듬해 2월 공창폐지령이 발효된 후인 1948년 10월말이 되면 사창은 5만여 명으로 급증한다. 또한 한국전쟁이 끝난 후 성 매매를 하는 여성은 30여만 명으로 늘어난다. 공창이 폐지되면서 사창은 급증한 것이다.

일부 여성학자들은 이처럼 성 매매 여성이 늘어난 데는 생활고뿐만 아니라 '일제 말기 수천 명의 위안부들이 해방 이후 고국에 들어와 생계를 잇지 못해 창기로 전락'했던 데도 원인이 있었을 것으로 추정된다. 그러나 다른 한편으로는 앞에서 예로 든 경우처럼, 민간 여성들이 납치와 강제의 형태로 위안부가 되었던 사례도 있었던 것이다. 다음은 김 박사의 지적이다.

"만일 한 발 양보하여 군 위안부가 과거 공・사창 출신이었다고 하더라도, 한국전쟁 전전(戰前) 5만여 명의 공・사창이 전후 30여만 명으로 늘어난 문제와 관련지어 볼 때 설명되지 않는다. 군 위안부가 어떻게 동원되었으며 그 규모는 어느 정도였는가에 대해 확실히 규명할 수는 없더라도 아직도 한국전쟁 당시 군부 책임을 맡았던 자들이 생존해 있으므로 정부 당국은 이 문제에 대해 진상을 규명할 책임이 있다"


単に、掲載があるという事実を紹介しているだけです。



ラベル:ohmynews.com
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